美は現前しない。
美は見ることも所有することもできないーー痕跡の経験。
美を待ち望むことは、祈りのようなものなのかもしれない。
マルグリット・デュラスは書いている。
「わたしはもうわかっている。何かを知っている。女を美しくみせたり、みせなかったりするのは服ではない、念入りな化粧でもなく、高価な香水でもなく、珍しく高級な装飾品でもないということを、わたしは知っている。問題は別のところにあると、わたしは知っている。どこにあるかは知らない。ただ、女たちがここだと想っているところにはないと、知っているだけだ。」
だからこそ、わたしたちは、女も男もできるかぎりのおしゃれをしなければならない。神聖な配慮を身に纏って、時には狂気のように、ファンタジーの出会いのように。
詩の美は余白/余韻、それらの「あいだ」にある、たとえ文字や音声「そのもの」にあるように見えるとしても。しかし、余白/余韻の遊戯は「それ自体」として孤立してあることはできない。それはおそらく欲望と名づけることができるだろう。美が到来する瞬間を待ち望むには、この世界のなかにこのうえなく繊細なスタイルを、信じうるマティエールを、かけがえのないパートナーをつくらなければならない。
天でも地でもなく、そのあわいの風。あるいは、心でも体でもあるようなモードのたわむれ。
美と呼び優しいリズムで応えあっているのは愛なのだ。愛と死は直接に所有することも一体化することもできない。死は見ることも支配することもできないーー愛のように。そして、美という恵みがあたえられる。
愛はなぜ詩的でしかありえないのだろうか?
この「すばらしい不幸」を生きること。一緒に、不意に、情熱的に。
そう、きみの瞳のように、大切なことは見ることではなく涙なのだから。
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バス・ルームの演出(ドラマ)のおおよその手順をまとめておきます。
入浴の前に、小さな準備をしておきます。
自分の内なる女神に出会うために、次のステップに進みます。いくつかのスタイルを想いめぐらしてみましょう。
入浴もひとつのアートなのだとすれば、魅惑をつくりだすのは「象徴性」だということになります。入浴する人はアーティストとして、象徴を造形し、美とカタルシス(浄化)を生み出すのです。








